AI絵と魅力の考察。均一的な美と非均一的な魅力。

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高圧的なAI絵師が話題になる中、AI絵には魅力を感じないという声が増えてきたので”魅力の正体”というものを文字に起こしてみようと思う。

無用な争いを避けるために「元の絵師の絵を貶しながらトレパクと同じ完コピAI絵を出力して自作発言してるAI絵師」と「AIを使って個人的に絵を楽しんでいる人たち」は別のもので後者については特に肯定的でも否定的でも無いという事をここに記しておく。※肯定的では無いと言うのは勿論学習絵の著作権問題があるため。だが元絵の完コピじゃなかったり、金銭が発生していなければ、おおむね個人で楽しんでいるファンアートに近い(似て非なるものではあるが)という解釈でいる。

前者に関しては論外とさせていただく。くらえ!アルティメットぶぶ漬けスウィング。

平均的な美は不自然である

美しさと一口に言うと視覚面や精神面、更には哲学的な部分まで含まれてしまうのでここでは主に視覚面の美について言及している。

例えば美しい顔というのは左右対称。そのために日夜メイクの練習をし、我々女子諸君は左右対称顔になる様に勤しんでいる。なぜ平均的な顔や左右対称の顔が好まれるのかというと、脳の認知不可が低くスッと頭に入ってきやすいそう。

だがちょっと待ってほしい。美しいカテゴリに属している黄金比率(フィボナッチ数列)は別に左右対称ではない。更に言えばモナ・リザだって非対称。

つまるところ左右対称の美というものは認知不可が低いから(脳に)好みとされているだけであって、愛されるもの(作品)になるかどうかはまた別の問題。

数学は何故美しいのかという問題に似ているが、ただただ美しいというものを突き詰めると幾何学、geometryart(ジオメトリーアート)、数学アートに辿り着き果ては均等な球体(GANTZのアレ)に辿り着く。幾何学は確かに美しい。しかし「記憶に残るか?」「チャーミングか?」と問われればどうだろう。

AI絵に魅力を感じない原因はここにあるのではないかと思っている。

charming(チャーミング)と言われると人であれば笑顔や表情豊かなイメージを持つかと思うが、そのどれもが美しいとはかけ離れている。美しいとは静止している、笑っていない左右対称の顔であるのに対し、チャーミングというのは動きがあって均一ではない印象。

例えば風が吹かない場所に均等に植えられたススキと、風が吹いて斜めに傾いて更に月も出ているススキ。流動性や躍動感を感じるのは後者。葛飾北斎の富嶽三十六景『神奈川沖浪裏』の魅力もこの辺りから来ている気がする。

前者は確かに美しいが、少し不気味で不自然ともとらえられる。

魅力は非均一によって生まれる

一番わかりやすい例をあげると、泣きぼくろ。asymmetry(アシンメトリ―)要素。デザイン画で言うと、デザイン画(モデルに”contrapposto”コントラポストがきいたもの)は魅力的と表現できるが、平面的なハンガーイラストには美しさはあってもあまり魅力を感じない。コントラポスト効果はかの有名なミケランジェロのダビデ像にも使われている。直立仁王立ちせずにどちらかに重心が偏っているというもの。こうすることで不自然ではない(相対的に)自然な魅力というものが生まれる。

Cute,pretty,KAWAIIともまた違う。charming(チャーミング)な、記憶に残りやすく背景の見える美しさに対するアプローチ。

Aristoteles(アリストテレス)の詩学に沿うとIdea(イデア,自然界にあるものをそのものたらしめているもの、理想像)に忠実でDiegesis(ディエゲーシス,叙述)的なものに近いのがAI絵で、エモーショナルでMimesis(ミメーシス,模倣)的な要素を持った絵というのが神絵師の絵なんじゃないだろうか。

”ディエゲーシスとミメーシスとは”

哲学者Platon(プラトン)は「自然界にあるものは、イデアの模倣である」と考えました。(イデア論)つまり目の前の机に花瓶が置いてあったとして、その花瓶の本当の花瓶(イデア,目には見えない)が存在しているのではないか?という考え方です。

この考えに沿って机の上の花瓶の絵を描いたとしたら、その絵は机の上にある花瓶(ミメーシス)の模倣(ミメーシスの更にミメーシス)になります。これではプラトンの追い求めているイデアからは程遠いので、芸術的なミメーシスよりも記録的なディエゲーシスの方がイデアに近いとプラトンは考えます。

そのあとプラトンの弟子アリストテレスが「ミメーシスは不完全だがディエゲーシスに無い良さがある」と考えます。詩学はもともと物語を作るにあたっての学問なので、現代風に言うと「現場の忠実な再現も大事だけど、エモ要素も大事だよ!」ということになります。

これを踏まえたうえで魅力というものを分解したときにその内訳が不完全性と法則性になるんですが、つまり何が言いたいかというと、法則性(再現性,ディエゲーシス)はあるけど不完全(フィクション,ミメーシス)の持つ魅力がAI絵には足りていないんじゃないか?ということです。やってることは模倣そのものなのに綺麗に模倣しすぎちゃうという表現になるのかも。

言葉のせいでややこしい。

歴史のテストは面白くないのに戦国BASARAは面白い

「じゃあAIに泣きぼくろ指定入れて出力すれば良くない?」

と思った人の為に付加価値についても話そうと思う。AI絵は手軽に出力できてしまうが良くも悪くもどの絵師を参考にしても平均的になってしまう。なのでなんだかどこを見て良いか分からない全部が綺麗な絵とも言えるし、万人ウケするが一人に深く突き刺さらない絵とも言える。現段階では。

ついでに言うともう”コンテンツ”は溢れているから、そのコンテンツの背景の方が大切だったりする。シチュエーション絵の伸びが良いのもただ綺麗なだけじゃなくそのキャラクターの背景や作者の意図が乗っているからこその価値であり、FAの伸びが良いのもそのキャラの背景故であり、インスタグラムでフォロワーを増やしたいハンドメイド作家が制作動画で家庭事情を暴露しているのもその活動の一環である。

べ…別に羨ましくなんて無いんだからねッ…///

”消費されるものそのものとその背景について”

歴史の年表をただ覚えるという行為よりも戦国BASARAに当てはめて勉強した方が覚えやすい。戦国BASARAは歴史的に正しいかと言われると別物だけど歴史に登場する偉人にキャラ付けして覚えるとなんだか愛着が湧いてくるし、明智光秀がなんか知らんけどイケメンになる。

”明智光秀について”

幼少期は謎めいており、著名人ぞろいの連歌会(俳句よむ会)にたびたび出席したり医学知識があったり鉄砲の名手だったり夫婦仲も良かったりとにかくすごい人だったけど信長と音楽性の違いによりグループ解散。

「その才知、深慮、狡猾さにより信長の寵愛を受けた」―――『フロイス日本史』

流浪時代に毛利元就に仕官を求めた際に、元就は「才知明敏、勇気あまりあり。しかし相貌、おおかみが眠るに似たり、喜怒の骨たかく起こり、その心神つねに静ならず。(光秀の才気は並々ならぬものがあり非常に魅力的ではあるけれども、彼の中にはもう一つ狼のような一面が眠っている。利益と同じだけの災いをもたらす可能性も大きい。)」と言い断ったという。―――『太閤記』上和編

Wikipedia

サイコパス気質だったのか、とにかくこれが明智光秀のエモ部分と言える。

ヒトにも絵にも背景が無いとこうはいかない。ただ綺麗な絵だな~綺麗な人だな~と一回消費されて終わり。私が思うにAI絵に足りない魅力はそこだと思う。逆に言えばそこを補ってしまえばもっと伸びる可能性はあるけれど、平均化される以上何処まで行ってもそこまでの魅力の可能性もある。だからこそ丸パクリ出力AI絵師が出てきたともいえる。

集合知としての美しさは変わらない。お手軽さも素晴らしい。けれど心を動かされる魅力については、ヒト型絵師の方が一枚上手といったところで今回の考察を締めくくりたい。これからもそうであってほしいという願望も込めて。

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